「やばいなぁ…」
「そう思うんならさっさとやりやがれ」
目の前に広がる教科書の山々にウンザリするほどのため息が漏れる。コツコツと音が鳴るシャーペンの先は不規則な黒い軌跡を漂うだけで、これといって読めるものは無い。おまけに隣では眉間にしわ寄せスパルタ教育如くに、丸めた大学ノートをパシパシと音を立ててるのが余計に憂鬱になるのだ。
「あとテストまで1週間きったってのに…」
このウスラトンカチ。その言葉は既に聞き飽きた程の言葉で、むしろそうですよ、なんて納得してしまいたいほど。
確かにテストまで1週間をきったのにまったく勉強していないナルトもナルトだが、したくない訳ではないのだ、ただ出来ないだけで…。どうしても机の前に座ると違うことをしてしまう。横にある漫画に手を伸ばしてしまうとか、パソコンを弄ってしまうだとか…。とにかく、仕方が無いと、言い切れる、と思う。
「んー、どうしよっか?」
ニッコリと笑顔で問いかければパシリと心地よい音で頭を叩かれる。視点を切り変えてサスケの方を見てみれば、先ほどよりも数倍な顔付きをしていたのであえて見てみぬ振り。
「…てめぇ、覚悟しやがれ」
「………」
いつもよりさらに低い声で呟かれたその言葉はナルトを窮地に立たせるのには十分だった。
「ロクサスー」
「何?」
「…別に」
「あっそ」
意味の無い言葉の繰り返し。用がある訳でも無いのに名を呼ぶ事はまったくもって意味を含まない事であって、時間、そしてエネルギーの無駄。そんなことはとうに分かりきっているのに毎日のように行われるやり取りに嫌悪を感じないのに不思議に感じた。
「お母さん帰ってこないな」
「遅くなるって言ってたじゃん」
今度は意味合いの含まれた言葉を発した。意識して言った訳じゃないけどロクサスにはそう言う風に捉えられたであろうか、別にそうとってくれても全然構わないけれど。
違いは無い。意味のある言葉でも時間とエネルギーは必要とするし、それは相手も一緒だと思う。となると嫌悪を感じるのと感じないものの境と言うのはどこにあるのだろう。
「今日クラスの委員長がさー…」
「またお前がろくでもない事したんだろ」
「まだ何も言ってないっ!」
「はいはい」
意味があるといったら在るし、無いといったら無い。今度はそんな言葉の往来。まだ何にも言ってないうちから言い包められたのにはちょっと憤りを感じた。でも間違ってはいないからなんとも言えないけれど。
けど嫌悪は感じなかった。憤り、つまりは怒りを感じたわけだけど、それ以上、それ以下でもない感情は生まれなかった。それは何故?
「…好きだよ」
「知ってる」
一瞬脳裏に過った単語。それを素直に言葉にしてみれば意外にも充実感が体中を占めて、そう、薄荷を舐めた感じ、それに似ていた。ロクサスは淡々と言葉を返してくれただけだけど、今思い返してみればそれが当たり前の事だと思っていた自分に少し吃驚する。
街中を歩いてる時、すれ違った人達に言葉を投げかけたりはしない。それと同じ。相手を『意識』してなきゃ言葉を交わす必要も無い、唯それだけ。
それさえ分かれば何もかもが解決。
「まあ自分の場合は『好き』だからだけど」
「…はぁ?」
なんの脈絡の無い話にロクサスの表情が変わる。言葉通りの表情とでも言った方が良いだろうか、感情の起伏が少ないロクサスにとってはけっこう稀なもの。良いもの見た気分。
「ロクサス」
「…何だよ」
「大好き」
「あー、あ~、あ゛ー…」
「…何してんの?」
何もする事が無くベットの上で近くにあった飴を舐めながらボーっとしていたその横で、先程までゲームをしていた筈のソラが意味の無い言葉の羅列を並べる。ゲームが映っているだろうと思われる画面を見やれば、とあるキャラクターが変な格好で止まっていた。
「なんか今朝から喉の調子が、さ…」
ケホリと喉の突っかかりを取るかのようにソラが咳を立てる。
言われてみれば朝方からソラはこんな調子だったかもしれない、と頭の片隅にロクサスは思い浮かべるが、実際のところあまり気にしていなかった所為か記憶に薄い。だが一つだけ鮮明に思い浮かべる事が出来るものがあった。
「昨日髪の毛乾かさずに寝たから」
風邪引いたんだろ。と放り投げる様に言ってやれば横でごちゃごちゃソラが言っていたが脳がリアクトすることは無かった。再び何も考えることなく一人の世界に入る。こういうのは嫌いじゃない、ソラは一人が嫌いとは言わないまでも、嫌だとは言うだろうが。口の中に残る固形物を舌でごろりと転がす。
「ロクサスのばっ…ケホッ!」
散々文句を発していた口からは苦しそうな咳が聞こえる。勢い余って喉にかかる負担が一定ラインを超したのだろう。途切れた言葉の先がたとえ理不尽な言葉だとしても、心配だと思わない事は無い。
「自業自得」
「…ぅる、せぇ」
漸く治まった症状を再発させないよう喉に手を当てて必死で押さえ込む。そんなソラの姿を見ながらロクサスは眼を細め、足を床へとつける。脳裏を占めるのは思考と言語が一致しない自分に憤りを感じる事だけ。何のために立ち上がってソラの前まで来て、己の口唇をソラの唇に当てたのかはロクサス自身でも理解不可能。
「………」
「………」
互いの唇を放した時には沈黙のみ。二人の距離は10センチ程しか離れていないのにとても遠くに感じた。
そして沈黙を破ったのはガリッと何かが割れる音と少し高めのハスキーボイス。
「やっぱロクサスは馬鹿だ」
「黙れよ…」
今頃になって赤く染めた頬を、ソラに背を向けることによって隠したのはつまらない意地の所為。後ろを向いたら恐らく会心の笑みを浮かべているであろうソラに対しての。
口腔から無くなった固形物を思い浮かべながら、不貞寝をしようと決めたのは直ぐの事だった。